―夏草―
八月に人って一段と暑さが増し、キリギリスの鳴き声が聞こえる。草群らから、草息れが漂よってくる。ニツ橋を渡る人達の往来は、相変わらず多かった。薮の蔭のたねの店には客がよく入った。しかし才吉が訪れる事は無かった。そばの夏草と、川の流れとは相変わらずで、子供の頃とは変わっていなかった。
そんなある日、ふっと才吉が店へ寄る事があった。たねは嬉しかった。いろいろと話が積もっていた。あまりにも多く、何を話せばいいのか、胸がつまるばかりである。しかし才吉の様子が何か気がかりであった。才吉は父が病気になり店と看病と、家族の養いが大変な事、家族皆で
働いても追いつかなくなっている事、手広くやっていた事が逆に重荷になって来ていること。御用達仕事が受けられなくなって来た事等を、才吉はたねに心配させない様、何も話そうとしなかった。
ただ、たねが出してくれる、ぬか漬けと鮒ずしを、酒の肴に美味そうに口に運んだ。たねも才吉の様子が仕事に追われている風で、病気の父や家族をかかえて、大変な事がよく解った。できるだけ明るくつとめた。たねも一緒にお酒の相手をした。店を閉めた囲炉裏傍の「あんどん」だけが明るく、その中へ虫が時々、飛び込んでくる。
たねが、「才吉さん、田にし取りをしたの覚えてる―?」と話を切り出した。「ああ、沢山とれたね!」と才吉は、子供の頃を患い出して答えた。「しぐれ炊きがあるけど、どお?」と、たねはすすめた。才吉は、「少しもらおうか」とたねの方を振り返った。たねはもう、皿に田にしを乗せていた。たねは、「あたしも、頂こうかしら」と自分の皿に数個乗せて、才吉の皿と一緒に並べた。
才吉はたねに「すまない―、」と云った。たねは、「すまないなんて―、みずくさいひと」と才吉に笑みながら、無邪気に返えした。才吉はたねと夫婦になれたらどんなにいいか、いまの自分に甲斐性がないばかりに、たねに淋しい思いをさせている事にすまないと云った気持ちだった。幼なじみであるが故によく解っている事がつらかった。
才吉は徳利が空になり、久しぶりにたねの茶店でくつろげた。帰りしな、お金を置いておこうとした。たねは、「いいよ、来てくれるだけで嬉しいから」と云ったが、才吉は、「勘定は、勘定だからー」と押し問答になったが、才吉はお金を払った。借りておくにしても、おごってもらうにしても、今度は何時来られるかもわからない。
たねに逢えただけでも、又、変わらぬたねの心づかいが才吉には嬉しかった。竹薮のそばの夏草の中で、虫が静かに鳴いていた。この日からたねの店に、才吉はぶっつり来なくなった。来なくなったと云うより、才吉は行けなくなってしまった。
―秋の空―
才吉はとうとう店を手放すことになり、江戸の得意先の店へ、奉公人として勤めねばならなくなり、父母と弟、妹を置いてゆく事となった。弟も妹も奉公人として預けられた。母は父を看病するため雨だけがしのげる程度の、武佐宿北裏の方にある長屋の一角に移った。たねはこの長屋へ時々寄る事があった。
縁の下からコオロギの鳴く声がする。たった一部屋の長屋の一角、水屋と畳のひと間だけである。たねはこの長屋へ、あり合わせの鉢ものだったが、時々持ってゆく事があった。才吉の母は、たねと話しては涙を流していた。才吉の父もあまり良くはなかった。
秋風が戸をカタカタと揺する音がする。才吉の母が、まな板でコトコトと、包丁の音がする。秋の夜は一段と静かで、僅かの音がよく聞こえる、長屋住まいの夜である。一夜明けて、秋の空は青く澄み渡り、うろこ雲が高くゆるやかに流れていた。たねは、この空の下で皆同じ様に生きているのだと思った。
同じ様に皆、つらい事や悲しい事を乗り越えて、生きているのだと思った。その後、月日が流れ、陽が短くなり。晩秋の風に少し寒さを感じる頃、たねは気ぜわしく茶店での毎日を送っていた。茶店の客の話で、才吉が江戸で得意店のすすめ話で、所帯を持とうと云う事を聞いた。たねは目の前が真っ暗になって、胸が熱くなり足から力が抜けそうになった。
「そんな・・・」「そんなはずがない」 「才吉さんがそんなはずがない」 [才吉さんは得意先の関係で、ぬきさしならぬ状態になったのだ」 とたねは思った。たねは奥の水屋に入って、茶碗を洗いながら涙が流れてきた。流れる涙をぬぐおうともせずに洗い続けた。
そうしてふっと水屋の窓から空を見上げ、「才吉さん・・・」と、つぶやいた。才吉さんがそれでよいと云うのなら、たねはそれでよい、と思った。私の様なものが、才吉さんの足手まといになる様では、いけないと思った。ただの幼なじみてあればよいのだと、たねは自分に云い聞かせた。今は、才吉さんと過ごした日々の楽しい想い出だけでよいのだと思った。
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