四月十日の降神祭の日から、囃し立てる鐘の音が聞こえ、心が浮き立つ様だった。宵宮祭には、子供達が火の付いた手持ち松明で、神社坂を上がったり、下がったりした事が思い出されて来る。又、お正月の松飾り、左義長の短冊、節分の豆まき、ひな祭りの菱餅、七夕や、お盆の流し、「花の木」の落ち葉拾い、冬は雪遊び等、楽しい思い出の数々。
その思い出がひとつづつ、遠くへ行ってしまう様だ。たねは十九才を境に、思い出も変わっていった。たねは「ふっ」と我にかえり、地蔵堂から戻って、母と一緒に朝の食事をした。この漬け物に至る迄、母に教えてもらった料理の数々、母と共に暮らしてきた思い出の積み重ね。何も云わなくてもお互いに良くわかる。そうして今なお、たねの開く店を手伝ってくれている。
母への感謝がこみ上げてくる。いつまでも父の分まで長生きして欲しい。「お母さん、ありがとう」と知らずに口に出てしまった。「なんだい、急に変な子だよ」そこには母子の睦び合う姿があった。たねの店は朝早くから人の出入りがあり、役人から町の人、武佐宿の人、又東山道の旅人や、行き交う人々が立ち寄ってくれた。たねは美人と云われる程ではなかったが、気性がさっぱりしたところがあり
明るさのある娘であった。
そうしたことから、気軽な立ち寄り場として「おたねの茶店」と呼ばれる様になった。しかし思わぬ事が起って来た。春の月が黒雲に覆われ、不安な影を落としていた。たねの母が以前からの「しゃっき」で苦しみ出した。医者を迎えたが手の施し様がなく、煎じ薬も効かなかった。母が危篤状態になり、才吉も駆けつけてくれたが、夜明け前に息を引きとってしまった。
たねの母は才吉に「何かとたねが厄介になり申し訳ない」と云っていた。たねの母の忌明けから後、何故かしきりに雨がよくふった。才吉も商いに出かけていたが、たねの事を気にかけていた。又、才吉にも不幸な事が起こり、才吉の父が病気で倒れてしまった。父の代わりに、才吉は遠くへ商いに出かける様になってしまった。才吉も父や母、弟、妹を養わねばならなくなり、必死に働いた。
―春の月―
たねの茶店が開店した。家の入口を大きくして、外には赤い布地を掛けた床机を二つ置いただけの店であった。中へ入ると昔のままの板の間と、奥の囲炉裏とが開放されていた。入口には赤布に「お茶」と書いて、しのべで、のぼり旗にして、刺してあった。その旗が春風で客を招く様に、「ハタ、ハタ」と揺れていた。ニツ橋で、川を渡る人達には、東山道からよくその茶店がみえた。たねの店はその東山道から、少し分かれた所にあった。又、お地蔵が近くにあり、たねは毎朝お水を供えていた。お花は季節に咲く野辺の花であった。今朝は、「花見だんご」を朝早くから蒸し上げて、お供えをして来た。
開店初日。「だんご」の旗も上げた。たねの茶店の近くにある渡しのニツ橋は、朝が早かった。今朝は、長光寺山の麓へ桜見に行くと云う、数入の仲間遠がニツ橋を渡って、長光寺村に入って来た。そうしてたねの茶店を見つけ、「こりゃあ丁度いいわい」と、云いながらたねの店に立ち寄った。「だんごはあるかねえ」と聞いてきた。たねは即座に「おいでやす、有りますよ、幾つしましょうか」と声を上げた。
花見だんごは三色を串にさして、いかにも美味そうだった。開店早々朝一番の客が十本も買ってくれた。たねは嬉しかった。昨夜から準備をして五十本も蒸し上げておいた。陽が高くなるにつれ、たねの茶店へ立ち寄る客が、ぽつぽつと増え、お茶や、甘酒、たね自慢の花見だんごも喜ばれた。
今年は四月十日頃から桜が八分咲きになり、十四日頃には 満開になる様であった。十日は八幡十二神社の祭礼が、始まる初日だった。開店初日、二日と忙しい日だったが、朝の地蔵堂へのお供え水は、忘れなかった。時々、ふっと才吉の事を思い出していた。この地蔵堂の前で子供の頃、よく遊んでいた事や、桜が咲く少し前、この地蔵道に続くあぜ道で、よごみ採りにいって「かげろう」を見た不思議や、又才吉に、お祭りに連れて行ってもらった事、等が思い出されてくる。