おたね薮

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近江国(中山道西生来)

 おたね薮はいつも竹の笹かすれ合う音のする、うっそうと繁った 薮であった。東山道近江国の武佐宿浦、ニツ橋の近くにあった。東山道から分かれたその薮の中への里道沿いに「おたね」と云う 女の茶店があった。いわば竹薮の入り口に茶店があったといった感じである。

 東山道を通る旅人がニツ橋を渡る際、一服に寄る茶店でもあった。長光寺山の麓には沼があり葦が生えていて山裾から武佐宿へ行くのに この薮の付近を通ってニツ橋の渡しへ出る。「おたね」はいつも薮の入口の竹に「お茶」と書いた旗をくくりつけていた。通る入はそこに茶店が在る事がそれで解った。そして話は更に年月を潮(さかのぼ)る。

冬の夜

 一月七日、雪がキラキラと舞いながら月明かりの中、笹の上に乗ったり 落ちたりして降っている。二日前に積もった雪が竹薮の中一面に残っている。「たね」は待っていた。「才吉」と過ごす時がとても嬉しかった。今日は七日正月で七草がゆを昼に食べ、夕食時に残りの餅を切って食べようと、桶に浸けた餅を引き上げてまな板に置いた時、 トントンと裏戸をたたくので開けて見ると「才吉」が立っていた。

「どうぞお入り下さい」とたねは、才吉を中へ入れ戸を閉めた。雪が付いている傘を預かり勝手口の隅にたてた。才吉の後ろに廻って手拭いで背や袖を払って雪を落として、「どうぞ、お上がり下さい」と囲炉裏傍へすすめる。才吉が腰を降ろすと、「ねぇ才吉さん、私、茶店でもしょうかと思うのだけど…」と話かけた。才吉は火箸で灰を掻き寄せながら、「いつから始めるの?」と聞いた。

 たねは、「この春からにしょうと思うの」と云った。才吉も、「その頃がいい」と賛成した。才吉は、しっかりした、たねのことだから、うまくやると思った。以前から、たねが茶店をしたがっていた事を、才吉は知っていた。たねの母は内職の針仕事をしていた。たねは時々「田にし」のしぐれ炊きを、武佐宿へ持って行くと、よく売れたが季節だけの収入であった。

 たねの作る惣菜は味がよかった。しじみや田にし、だぶ貝、川エビ、沢ガニ、ムツ、オイカワ、ハス等 近くを流れる大川にはそういった貝や魚がいた。冬はその川から田に引き込んだあぜ川で、川底の土を掘り返すと、どじょうが沢山とれた。たねはそうしたものや野菜の煮炊きが上手かった。才吉は川魚を釣ってはたねの家に寄った。才吉はこの囲炉裏傍で一杯を飲むのがとても楽しかった。又たねの料理も気に入っていた

髪幸生挿絵

 それにたねとの会話が才吉には快良かった。たねと才吉とは幼なじみであった。たねもよく才吉の家へ遊びに来ていた。才吉の家は武佐宿通りの西で、問屋近くにあり、筆、墨や硯、みの紙、半紙、他、紙類の色々や巻物、祝儀物、袋物等の商いをしていた。 店の前は人通りが多く賑わいをみせていた。才吉の店はその中で繁昌していた。父の店をよく手伝い、長男の才吉が後を継ぐことになっていた。

 一方、武佐宿浦の、たねの家は農家であったが、たね十九才の時、父親が亡くなり、母子二人の暮らしであった。生活が苦しかったが、たねは明るい性格の娘であった。料理が好きで母ゆずりの器用さを受け継いでいた。しかし母は物静かな人であった。幼い頃、たねや才吉も子供仲間と一緒に長光寺村の田や川で遊んだ。

 今は、たね二十五才、才吉二十八才になった。共に身をかためるには どちらかと云えば遅い方であった。たねの店の話に戻るが、たねは小金を貯めて、門口だけは少し拡げて、客が入り易くしょうと思っていた。外に床机を二つ置いて三、四人程、腰かけてお茶が飲める様に、又店の中は、上り口に「みざら」を置いて上り易くして、上った板の間は、そのままで、奥の囲炉裏部屋も開放しょうと思っていた。

 たねは夢に胸を膨らませていた。たねの母は寒い冬の夜は、早くから床に入っていた。たねは正月用に買っておいた酒があったので才吉の為に 徳利一本を湯に浸けた。酒の肴には鮒ずしと日野菜漬けで充分だった。徳利が空いて才吉の気分がゆったりしたところへ「七草がゆが少し残っているので…」と、たねは湯増しをして温めたものを持ってきた。実は今晩、才吉が来てくれるので、わざと残しておいたもの。

 二人は「かゆ」をすすった。囲炉裏火で二人の顔がほてって見えた。才吉は、「何か入り用があったら云ってくれ」と云った。たねは、「気持ちだけで嬉しい、そんなに大層な店じゃないから」と云って恥ずかしそうに笑った。しかし、たねには才吉の優しさが嬉しかった。幼い頃から困った時や、たねにとって、何か重大な決意をする時には、才吉が話相手だった。

 女友達もいたが、活発なたねには男の子の才吉の方が、手ごたえがあった。二人は幼い頃の話も出て、今日はたねも才吉も、充分な時間がとれた。親は共に、二人の仲を認めていたが、たねは母一人を残して、嫁ぐには気がかりだった。たねの母は、「私に構わずお嫁に行く様に」とすすめていた。

 たねと同じ年頃の娘も皆、嫁いでしまい、たねは少し淋しかったが、持ち前の明るさで、あまり気に病んではいなかった。又、才吉と逢えるのが楽しかった。才吉もたねが、かいがいしくしてくれる事に、安らぎを感じる気持ちになれた。才吉の、店の商いは御用達があり、江戸へ向かう事もよくあり、たねも才吉がいない時は淋しかった。

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