泡子地蔵

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近江国(中山道西生来)

 娘「美津」は十八才で色白であった。澄みきった水の中で大根を洗っていたが、素足の足元で舞う様に、泥の濁り水が筋を描いて流れていた。そこへ一人の僧が通りかかった。その憎は立ち止まり橋の上から川の流れを見ていたが、目を閉じてしばらくの間、合掌をしていた。

 娘、美津と旅の憎との運命的な出会いが始まろうとしていた。近江の国-中山道、西生来村、「橋川」での事であった。美津は何か赤ん坊の泣く様な声が聞こえ、ふっと橋の下から上を見上げると、旅の僧が橋の上に立っていて合掌をしていた。初秋の日差しの中、川面の照り返しで、深編み笠の僧の顔が「キラキラ」と黄金色に輝いて見えるではないか・・。

 美津は少しの聞、大根を洗う手を休め、「ボーッ」とその僧を見つめていた。美津が大根を洗い終へて、茶店に帰ると、その僧が店で茶を飲んでいた。美津はその憎に、「おいでやすー」と挨拶の声を掛けながら、茶店の奥へ入っていった。

「おば様、大根洗ってきました」と美津は茶店の「かみさん」に、笊に乗せた洗いたての大根を渡した。「はーい、ありがとう」と、茶店のかみさんの声、「おば様、今年の大根は皆、おおきぃなってるー」と美津、「そうだねぇ、雨が葉の頃、よくあったからねぇ」と、軽い調子で交わす会話が聞こえてくる。

 まばゆいばかりの日差しの中、風鈴を鳴らしながら、風が茶店の中を 通り抜けてゆく。時々、美津はこうして、この店の手伝いに来ることがあった。

髪幸生挿絵

 美津は医者の娘で、父は漢方を学び、この村でも評判の良い医者であった。茶店をしている「かみさん」は美津の伯母にあたり、美津は幼い頃から、この店に遊びに来る事があった。「さんじゃく」を結んでもらっていた子が、今は紺がすりに紅帯がよく似合う娘になっていた。紅緒の草履を履く素足の指先に、薄く道埃がついている。こまめに動く娘であった。

 旅の僧が礼を云って茶店を出たあと、美津は湯飲みを盆に乗せ、床机から引き上げ、僧が飲み残した茶を「流し」へ捨て様とした。その時、あの橋で見た僧の顔を不思議な気持で見つめていた事を「ふっと」思い出した。美津にも初めての体験で、人に説明しがたい、何か少し上気した様な、又その時が経つのがやるせない様な気持ちであった事。

 又、あの時、川辺りで聞こえてきた赤子の泣き声は…? 何故かその憎が飲み残していった僅かばかりの茶が「キラキラ」と 川を流れる水の様に、澄みきっているではないか。あまりの美しさに美津は捨てがたいものを感じ、何か「頂こう」と云う気持になり、静かに一口で「スーッ」と飲んでしまった。

 美津は幼い頃から、物を粗末にしない様、何でも残す事なく頂く様に…と教えられていた。気心の優しい明るい娘で、村でも人気者であった。そのお蔭で茶店もよく繁昌した。美津は喉の乾きもあり、そのひと飲みがとても美味しく躰の中へ流れてゆくのを感じた。

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