おたね薮
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それから僅かの月日が流れた
才吉の父が亡くなった。才吉が江戸へ行ってから六年が経っていた。才吉が父の葬儀で、長屋には二日間、居ただけで、「母を頼む」と 弟に云って、幾らかの金子を置いて行った。母を弟がみる様になった。弟は職人で一人前になっていた。才吉はニツ橋から山裾の東山道へ抜ける途中、たねの店の近くを通ったが、茶店は閉まっていた。
何故なのか?たねに逢いたかったが、たねは不在だった。その頃、たねは亡き母の親元で、普請の屋移りがあり「三雲」の方へ 二日間、店を閉めての手伝いだった。煮炊きから焼き物、惣菜、赤飯と多忙を極めていた。二夜明け、たねは朝早く親元から長光寺村へ急いだ。
才吉も江戸への道、東山道から東海道へ抜ける道を通って行こうとしていた。才吉は安吉橋から左の山沿い道を選んだ。たねは「山の上」から安吉橋を通り、長光寺山の麓道からニツ橋へ帰ろうとしていた。二人は僅かの差で、安吉橋付近で往き違いになった。この行き違いが二人の道を分けてしまった。
その後、才吉が江戸で所帯を持った事は事実だった。妻は才吉の質素な暮らし向きには、少し合わない人であった。何不自由無く育ったせいか、少し我儘なところがあり才吉をよく悩ませた。子供は無かった。才吉は商売の力量を買われ、以前、得意先だった店の番頭になっていた。金銭的には恵まれ、暮らしには不自由は無かったが、妻の事でいろいろと気苦労が絶えなかった
それから十年の歳月が流れた
才吉四十五才になっていた。才吉は郷里の母や弟、妹、そうしてたねの事など、どうしているのか、 幼かった頃の郷里(ふるさと)の事が、懐かしく思いだされて来る。そうしてあの頃の郷里に対して、何故か「すまない」と云う心になっていた。自分が今在るのは、あの郷里のお陰だと思える様になってきた。
父や母、弟や妹、そうして「たね」自分が兄でありながら家を離れ、郷里を出て行かねばならなくなった事、今は金銭的に困る事がない暮しが出来る様になった事等、「あっ」という間の歳月に、遠く流れた日々の事が、走馬灯のごとく思い出されて来る。勤め先の店は、妻の弟が後を継ぎ、所帯も持ち、店は繁昌を極めていた。しかしその後、才吉の妻は四十四才の若さであったが、看病のかいもなく病で亡くなった。才吉は店に「いとま」を願い、郷里に帰る事になった。
三月の春、ま近かの頃であった。
おたね薮
才吉が帰ってくると、皆元気で暮らしていた。弟にも、妹にも子供がいた。母も高齢だったが達者でいた。才吉はたねに違いたくて、たねの店へ行った。たねは元気にしていたが、以前の様な明るさが少し無かった。東山道よりも中山道の方が賑やかになり、ニツ橋の渡しも少し人通りの数が減っていた。たねは才吉に違えて大変喜こんだ。涙を流していた。
才吉も胸に熱く込み上げてくるものがあった。この十七年間、余りにも多くの事かあり、 何をどう話せばよいのか、言葉にならなかった。たねは四十二才だった。過ぎ去った青春の日々が、季節の遅がけに降る雪の様に、淡く消えてゆく様だった。三月の中頃でも雪が降り、薮の竹の合間から真っすぐに落ちて来るみぞれまじりの雪が白く見えた。涙の色の様に、又涙の数だけ落ちて来る様に思えた。才吉はたねに、「すまない」とひと言云った。たねも、過ぎ去った事はもう帰らぬこと、たねは、「すまないだなんて、みずくさい…」と云った。二人は泣き笑いになった。
その後、二人が夫婦になる事は無かったが、たねの茶店は、たねが亡くなるまで在った。そうして、その薮を「おたね薮」と呼ぶ様になった。数百年後の今、地蔵堂は法性寺の境内に移されている。
完
※全編を通しての使用文字
読みについてのおことわり
・中仙道を中山道(なかせんどう)
・言う=云う ・草鞍(わらじ)
・脚絆(きゃはん)
・武作寺(むさでら)
・安吉橋(あぎはし)
・藁小屋(わらごや)
・武者竜胆(むしゃりんどう)
・問屋(といや)
・陽炎(かげろう)
【あとがき】この武佐宿物語の登場人物は、実在する人とは全く関係がありません。民話や昔聞いた事、言い伝え等を、フィクションで構成をさせて頂きました。近江八幡市教育委員会発行の「近江八幡ふるさと昔ばなし(泡子地蔵)」から抽出させて頂きました事、宿場図は、中村屋さん秘蔵の絵巻を模写彩色させて頂きました事、武佐学区公民館(資料・作成) や故嶋沢良一先生はじめ、多くの方々の御協力を頂きました事等に心より御礼申し上げます。久松 英夫(髪 幸生)
遥かなるかな いにしえに
心音たてて 歌ぞ聞く
髪 幸生