東山道返り道
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仙次は、子供の頃を思い出した
誰か男の人に、寺か宮か参りに連れて行ってもらった事を思い出した。長光寺の観音さんの縁日であったろうか、露店が出ていて、麦わら束に差した、風ぐるまが廻っていた事と、その人に「肌守り」を紐で足して、首から掛けて貰ったことを覚えている。その人が誰なのかは、はっきりしないが、躰格好の印象は、やさ男風であった。
仙次はふっと、我にかえり今、同郷とかかわりある者の死を、見取る羽目になり、何か不思議な様でもあるが…又、逆にあたりまえの様な気もした。この渡された物を村の者に届けて欲しいと、息を引き取る前の望みを聞いてやる事で、安らかに往けるのなら、その様にしてやりたいとも思った。
「じいさん、何か云いたいことは…」と再び、仙次が云ったが、年寄りは大きな吐息を最後に息が止まった。仙次は仏となった者にわけわからず、「成仏してくだせえ…」と云って片手で念じた。そうして間もなく、仙次は疲れを感じて、うとうとと眠りに人った。
夜が白みかける頃、何かの物音に目を覚ました。昨夜の亡きがらを朝やけの中で土に埋め、その上に丸い石を乗せて、手を合せた後、仙次は小屋を去った。まさかこの死人が実の父親であったとは、仙次は知る由もなかった。
足は伊勢の方に向かっていた。昨夜ことづけられた物を、来た道を引き返し渡す事もならず、そのうちに…と懐中に仕舞ってしまう。いつもの仙次なら、知らぬ人の頼みなど、又宛てのない事等、引き受けはしないが、何かこだわりなく約束を果たしてやろうと云う気持ちになった。
昨日の村での事件とは、うって変わった、晴れた様な心であった。その後―、仙次の行方は解らなかったが、再び武佐村を訪れたのが十年経って、仙次三十八才の歳である。村へ帰って母を訪ねたが、もうすでに他界していた。渡世人になった自分の身を極道者と思った。
母と親しくしていた近所の人が、一通の手紙を仙次に渡した。仙次はその手紙を受け取るや、母「とよ」の墓参りを済ませ、追われる様に村を去った。
その手紙を東山道、宮社の石段下で開けた。代筆をして貰ったらしく母「とよ」が仙次に宛てたものだった。しかし仙次は宇が読めなかった。そこへ和尚がどこかの帰り道か、仙次の前を通りかかった。
仙次が和尚に頼むと読んで聞かせてくれた。内容は、仙次の実の父「時次」は、仙次が一才の頃、妻「よし」を病気で亡くし、時次は渡世人で、仙次を育てることが出来ず、仙次を幼馴染みの「辰吉」「とよ」夫婦に預けた。子の無かった夫婦に仙次は可愛がられていた。
しかし、仙次六才の時、辰吉が病気で亡くなった後、「とよ」によって仙次は育てられた。「とよ」は内職の針仕事で暮らしていたが、除々に視力が落ちてしまい、時には仙次が母をみる様になる。云わばお互い、かばい合う暮らしになった事。仙次が子供仲間から、いじめられたりしている頃、ひょっこり、時次が顔を出した事が書かれてあった。
仙次八才の八月十七日の日
再び、仙次の記憶にある子供の頃の、たった一度の出会いを思い出した。長光寺の縁日に連れて行ってもらい、風ぐるまを眺めていた事、又、「肌守り」を首から掛けてもらった事を覚えている。仙次には、あまりにも近親感をもった思い出として残っている。そのとき、父時次も同じ「肌守り」を身につけた。
父子して同じものを身につける事で、時次は繋ぐものを、どこかに作ろうとしたのではなかろうか…。子供の頃の仙次には知る由もなかった。又その日、時次が村を離れる時、幾らかの金子をとよに渡し、二度と村には帰らない事、又、自分が亡くなる時は、「肌守り」を誰かにことずけ、自分が亡くなった事を知らせる旨の事が書かれてあった。
仙次が伊勢の伯父を頼って十五才に村を出てから後の事は何も記されていなかった。又、自分の苦労ばなし等は一切書かれていなかった。ただ、仙次には申しわけない、との一言がつけ加えられていた。
とよの手紙に書かれたことを仙次は黙って聞いていた。又、この手紙を読み終へた和尚も代筆した自分が、あらためて仙次に読んで聞かせるめぐり合わせに合掌をした。そうして一年前の八月に「とよ」がこの世を去ったことを仙次に伝えた。
仙次は和尚に礼を云い手紙を受け取った。十年前、忘れはしないあの「土山」の山中で、ことづかったものが母とよに渡して欲しいものであった事を理解した。
仙次の足は、あの山中に向かっていた。だんだん足早になり、たどりついた小屋は、もう砕けてしまって、板切れだけが誰かによって積まれていて、草が生えていた。まばゆい五月の陽の光りの中、緑の草が風に揺れている。
小屋があったその跡地は、平地になって、その奥に丸い石が、土の少し盛ったところに残っていた。仙次はこの時、初めて胸に込み上げて来る熱いものを、押さえ切れず、膝をつき肩を震わせた。涙が頬を伝っている。
この幸い薄き、父と子の数少ない一生涯での出会いが、一期一会にして、一つ一つが最期になり、出会いの意味の深さを教えている様である。子供の頃から、涙など出した事の無い仙次であったが、なぜか涙が流れて仕方が無かった。何か長い間の積もったものが、塞きを切って流れる様であった。別に悲しい訳でもない、その涙のひとつ、ひとつが仙次の心を洗い流してゆく様であった。
夫々が、夫々に、そうとしか生きてゆけないものが有ることを、ゆるす気になって来た時、仙次が長い間、世間との係わりに背を向けて来た「かたくな」な心から解き離たれ、この世で、こんなに、安らかな気持ちになれる事を、仙次は生まれて初めて知った。
その後、仙次は頭をまるめ、二人の母と、二人の父の菩提をとむらったが、仙次は五十才にしてこの世を去る。その時、仙次がとむらった墓四つと並んで仙次が置かれ、東山道山裾の「五ツ墓」として村の墓地から離れて並んでいた。
何故、墓地から離れ、山裾道に置かれていたのか。渡世人であった故か、それとも、この世で睦び合う事の無かった父子ゆえ、そっと置かれていたのか、無縁仏となっていた。
その場所は、東山道から長光寺村へ入る手前で、山裾道のゆるやかな曲がりの山手側にあった。後、数百年経って、作者が子供の頃に見た記憶では、墓と云うより、墓石の一部が転がっていたと云う感じであった。その後、昭和時代、工場誘致のため、山中や山裾に在った墓石や地蔵等は移転され、長光寺参道沿いに並べて置かれている。